かぼちゃの馬車の人たちは現実逃避をしていた

結局はここなんだと思う。

私も自分の辛い現状を寛大目に見たり。周りは失敗しても自分はそうではないと思ってみたり。

本当は直視しないといけないミスを無視して、現実を見ないようにしていた。

そして後から自分にとって都合が悪くなると、話が違うとか騙されたという。

騙される自分がいる事を直視できていない。

騙すことがとても巧妙なスキームのこともあるが、

不動産業界の騙し(もちろん騙さない人たちもいるけど)なんて、マルチ商法の騙しと大差無いと思っている。

あまりマルチ商法で騙しをする人のやり方はしらないですが。

自分で選択したことについて、思っていたのと違うとか言い出していたら

全ての人が失敗をしても、失敗を他人のせいにして、さらに誰かがリカバーしてくれる世界。

そんなもんあるわけない。都合が良すぎ。

失敗して、あまりに首が回らないので、社会に助けを求めること自体は仕方ない事

それを助けるのもまた人間社会なんだから。

ただ余裕のない社会、厳しい社会だと、全て自己責任でほっとかれるけど。子どもの頃から。

まあとにかく自分の選択の結果が自分でわからなくて、

出た結果に文句をつけるのはせいぜい15歳くらいまで。

子どもたちだって、自分が勉強しなければその結果は自分たちに返ってくるわけだから

親だろうが他の誰かだろうが肩代わりしてあげることはできない。

現実認識を歪曲してしかできない人間に育ってしまったら、

その子どもは一生現実を直視できないもしくは、しなくていい環境でないと生きていけない人になってしまう。

なにかの専門知識があるとか、地位があるとか、それはそれでいいのだけど、

それによって自分が大きな失敗をしても、自分でそこから何かを学んで次につなげるのではなくて、

失敗は騙した相手がいたんだから、相手が悪いんですって言ってしまって、

自分の失敗を社会が吸収しないと行けない事やなんかに考えがいかない。

成熟したスキームをもった日本社会(困った人や騙された人を助けてくれる)だとしても

欲を出した人をまた欲をもった人が騙すことはずっとなくならない。

そんなのは大昔からきっと変わってない。

一人の個人に騙され裏切られようが、大きな組織や国レベルに嘘をつかれようが、

〇〇が悪いんです?最後は神に騙されたら、この神様が悪いんですとでも言うのだろうか?

自分や自分の側の人だけを利そうとだけ思ってしまったからこのような結果になっただけ。

ちょっとでも相手を他者を利すると思えれば、結果は全く違ったはず。

かぼちゃの馬車の建物が誰かを利するために築くられているとはとても思えない。

あんなピカピカにしただけの刑務所みたいな建物にお金のない女性たちを呼び寄せて住まわすことに対して

疑問を誰も持てなかったほどの社会に対しての、人としての鈍さが露呈されてる。

少し謙虚になればいいだけのことなのだ。

選べるだけでも恵まれているってことも忘れてる。

そもそもそんな騙しも、本人が結果オーライになってしまえば、騙したことにすらならない。

ってのが世の中じゃないの。人間社会。

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