投資の世界では半ば神本の「金持ち父さん、早く引退」をディスってみる

あの馬に乗ってる絵はぜんぜんうらやましくない。(ただこの世界の完璧さに涙したとこは分かる気がする)

ラットレースは問題だと思うが、ラットレースを降りることが回答というのはなんか変なきがする。

賃金労働(=賃金を目的とした労働)の価値が問題なのであって、

人を助くために労働することは社会の根幹というか、ホモ・サピエンス社会の成り立ちそのものである。

私はサラリーマンをいくばくか続けたい、自分の中でいつまでというのは代替もっている。

なぜ?

あんな「この豚野郎」と誰かのことを思っても、とてもじゃないけど、そうは言えない環境。

サラリーマンである限り誰かのことを豚野郎とか馬野郎とかって、思ってることは言えないだろうけど。

だからこそそこがミソなのだ。

そんな鬱屈した環境ではあるが、だからこそ政治があって、人間社会の縮図がある。

力を使って、力がおよぶ人に対して、言ってしまえば悪いことだってできる。

私はそれをしたくないが、現に会社の中の人たちは日常茶飯事に行なっている。

まあどうでもいいのだ、人のことなんて、かなりの数のホモ・サピエンスにとって自分がより有利に生き残るためには。

そうロバートキヨサキはラットレースと言って、この神本を礼拝している人たちも

そんなラットレースに生きている意味はないと思ってるのかもしれない。

でも、これが事実なのだ、人間はラットレースをする。

ラットレースの中で、そこそこ食べるものがあって運動できて、生きていければ、

なんか大変なのに自分で考えて、行動して失敗しながら学ぶよりよっぽど楽。

その中で、一部のラットを蹴落として(コ・ロ・シ・テ)、生きながらえていくものなのだ。

どうしても綺麗事ですまない。社会を形成している以上。

イジメが問題だとして、社会にとっては生存のための一定の必要悪である部分がある。

必要なのはイジメがあっても、別の集団に移れるだけの、場や環境の許容性があればいいのだ、

一つのカゴでラットレースしなくても、誰かが前から足蹴、後ろから噛み付かれたら、

カゴから降りて、別のカゴに移れば。異動先が同じラットレースだとしても、

カゴの形状、飼い主、参加者、そもそもの参加人数ががらっと変わることだってあるし、

もっと言えば行われているものがラットレースとは全くことなるルールのものだってある。

ならそれで生きていける。

まあとにかく、人間の因果としてサラリーマンは一つのありようなのだ。

それ以外の環境もいくらでもあるが、このくだらない人間を学ぶよい教材だから、

私はある程度雇用者を続けることには意味があるとみなしている。

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