ちまたではこどもを持つことが贅沢だという表現がでてきているようです
まあこどもは人生の機微を与えてくれるものなので
親からしたら贅沢品という表現もできるでしょう
またこどもを持ちたいが、持てない親からすると言うまでもなく
子どもを持っている人が自分より幸せに映ることもあるかもしれません
ただ子どももここで一人の人間で親には喜びとともに責任も伴うわけですが
さっきから使っている「持っている」という感覚のものでもないものです
所有感の強い親御さんもいらっしゃるでしょうが
さて子どもを持つことができる親は贅沢だという表現に言い換えるとして
もしくは子どもがいるという存在自体が贅沢だというようにもとれるので、そう言うとしても
これはとりもなおさずホモ・サピエンスが存在することは贅沢だというようにも聞こえます
すべての大人は子どもでした
当たり前ですがすべての人間は赤ちゃんから老人の間のどっかです
親に子どもがいることが贅沢であるとすると、もはや人間が存在できることが贅沢であると聞こえます
子どもを育み育てることは単に動物として自然なことで、それを幸せに感じるから種も生き残っていくわけですが
それをさせてもらえない、できない人たちがいるので
その営み自体が贅沢であると
でもこの営みが贅沢だとするとどうしたらよいのでしょうか
人間が動物としての営みを行うことが贅沢であるとするなら
贅沢の対義語である倹約を行うべきかもしれません
ただここで実は私も人間自体が贅沢なんじゃないかと思ったりすることもあります
私より上の世代の人が敗者の不幸とゼロサムのパイを奪った上に成り立った安定生活を送った上に、定年してからも
これから自分にはどんなラッキーで幸せなことが降り注ぐんだろうって思っているような人が
大なり小なりいる事実一つでも
十分やつらは贅沢品です
そう存在が贅沢です
幾多のかばねの上に成り立った生活を送って、年老いてからもさらにかばねを重ねて生きて生きたいと思ってる
贅沢です
たったの一個体がこの世のすべてとはいかなくても
手に入れられる限界まで程に入れれるるものは手に入れられるのだと思っていたら
こんな贅沢な種は大した個体数が存在できないでしょう
だって贅沢だから
ではいつかこの贅沢品を慎まないといけないという考えも出てくるのでしょうか
ホモ・サピエンスという贅沢な存在、子どもを持てるという贅沢が見直されて、慎まないといけないということでしょうか
たぶんホモ・サピエンス、賢い猿たちにそれを判断できるだけの力はないように思います
でも私のスタンスは贅沢だです