親権は基本母親になるルール
児相に連れていかれた時点で子どもが帰ってこないなど
どっかでちょっと掘り下げげていきます。
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親権は基本母親になるルール
児相に連れていかれた時点で子どもが帰ってこないなど
どっかでちょっと掘り下げげていきます。
にしばられなくてよいと思う。
100回の台に乗せることをそんなに意識しなくてもいいんじゃないか。
週1でもせいぜい365/7=52回くらいなのだから、今週は飛ばしちゃった、今週は2回できたってのがあって、
やっとこ50〜60回でしかないんだし。
仮に20〜30回でもだいたい月に2回のペースは保てているのだから、
パートナーとの間での納得感があれば良いのではないか。
せいに関するお互いの考え方も含めてそれはいろいろな形があって良いはずで、
たしかに長期間となるとレスの危険性があるが、
パートナーごとにペースも違って、それによって年間50回以上差が出てきても
それはそれでええんでないかと思う。
せ・◯◯のことでみんな悩んでいるのだろうからもっとそれぞれに出口があってもいいように思う
武井荘がストイックでも、女性に期待させてお金を使わせてしまった過去があるなら
脇の甘さがどこかにあったのかもしれない。彼の才能努力完璧なら他も完璧ということではない。
どんなに自分のことが実現できていていも、情報が発信されていても、真実は自分の中にある。
別に努力が実って有名になってお金持ちになること、世間に影響力を与えられることが
人生の価値を左右するわけではない。
無名でも、金持ちでなくとも、正しく生きようとしていくことでも十分人生は表現できる
山本耕史は正直羨ましいが、彼とてほぼ偶然だったのだろう
でもここでも堀北真希の文脈でラッキー、羨ましいという言葉が出てきてしまうが
本質はそうではない。山本耕史自身に幸せになる意思があったから
たまたまタイミング的にそうなったのだろう。
彼に幸せになる意思がある限り、別の形でも幸せになりえた。
それは一時的なことではなく、常に生活の中で問われていることだ。
目に見える美しく若くて家庭的な内助の功を買ってでる妻を娶ったということに関心が行きがちだが、
そこではないのだろう。
幸せになる意思があるなら、困難とも向き合って幸せになれるからだ。
美しく若くて家庭的な内助の功を買ってでる妻と結婚できなければ幸せになれないというのは
人生から何か幸せにしてもらえるものを得る発想だ。
そんな理想の人生を獲得することが目的の人生はなんなのだろうか。
またそう考えてるがゆえにそんな人と巡り会えないのだろうし。
そうでなかったのなら幸せに慣れない、他の幸運な誰かより不幸せだ、
という話なのだろうか。どうだろう。幸せはやっぱり自分の中で作り上げて、
またそれを人とシェアしていくことだろう。人間社会では。
2014年中場はじめてブログをやってみようかと考えていた→考えただけ
染谷氏やOzPA氏、HIKAKINの本も読んでみた、
その後2015年終わりに再度ブログをやってみようかと思い書いてみたが、
2週間程度で辞めた。イケダハヤトさんのサロンにもちょっと入って見た。
そん時結構いろいろな人のブログを見ていた。
それで今改めて周りがどうなっていったかの時間軸を整理してみると
主義主張や人間の生き様といったものが随分変わっていっているように感じる
ブログを続けてよくなっているのがわかる人もいれば、
そのブログで掲げていた旗そのものが変わってしまった人もいる
こんな時間軸がわかるように、現在だけではなく、どう変化していったかを
ブログにわかるように埋め込むのも必要なんでないか?
別にどう変わるかは個人の自由としても
10年続けられれば、それだけで、ほんの一握りの0.◯%になるだろう。
多分ほんとそれだけでいい、15年もしたら妖怪の域かも。それだけ続けば違いが勝手にうまれる。きっと
ただ5年、10年というスパンの中では、この方法でインターネット界隈で食っていけるというものも
どんどん変わってくるだろう。アフェリエイトでSEOがどうの、Youtuberが旬だ、これからはInstagramだの
これからもどんどん出てくる。そういったのは、変化として。そんなんはおっさんたちではなく
10代、20代前半の若い人たちのところから出てきて、またその世代がおっさんになっていっての繰り返しになる。
もしかしたらgoogle様に従っている世界すらも変化しているかもしれない。
そんな中でもメディアとしてのあり方、コミュニケーションのプラットホームの変化を追い続けることを
10年、15年継続してたらもう一人勝ちだろう。
10年続ける、その意思だけで勝ち組だ。
通常のストック型のブログのリンクをトレンドブログをたまにやって、内容に関連づけて、挿入していけば
アクセスが伸びるんで無いか、少しずつ、月一回〜親和性の高いトレンド内容が出た時に、数回やってみる
私たちは人生から何かを与えてもらうために生きているのではなく、
人生に問われたことに対して常に答えるように求められている
なにかをもらうために生きている人生ってなんなんだろう、
それをもらえたら?もらえなかったら?いったいなんだと言うのだろう。
やっぱりビクトール・フランクが自分にはしっくりくる。
先人がとんでもない経験から、すでに道を示してくれているおかげで
それを言葉として残してくれているおかげで、
自分がどう答えるべきかを常に問うことができる、
どのような状況でどのように行動できるかということを建前で空想しても意味はないのかもしれないが、
自分がどうありたいか、どう行動すべきかを持っておくのはわるくはない。
結果どうなろうと、どうあるべきかは自分の中にあることなのだろう、
いつも彼の考えのように行動できなくとも
1つ1つの行動に対してどう決断するかは、常に問われているのである。そして1つ1つは鎖の輪のように繋がっているのだ
そう人生はつながっている。
彼が発見してくれたおかげで、そのことについてあまり苦もなく
生き方に取り入れられることは随分運がいいことだと思う。
やっぱり仲介業者の手数料払い過ぎ、
2000万円後半の中古物件両手でやっただけで100万円って
それだけの仕事した?かな
の特集記事だけで何本も記事が書ける
2014年のマウントゴックス事件後にビットコインに興味を持った時買っとけばよかった
その後転職活動や、その転職活動がうまくいかなかったりして、投資に対する注意を削がれていた。
ドルやユーロを買ってみて、円高がさらに進むのを観測してるより、
とっととビットコイン買っとくべきだった。
でもこれは今回だけでなく、2009年くらいに海外の株式が買えないかと考えた時が一度あって
その時テスラ・モーターズに興味を持っていた。
単純にイーロンマスクが面白かったから。
でもそこでも投資しておけば5年ぐらいで10倍くらいのリターンになっていた
テスラとスペースxは一度ダメかもってところまで行ったけどその後復活して今にいたる。
その時は海外株を購入するには別途申請が必要でそれがおっくで、
やめていたと記憶している。
結論:
2つに共通することは
・忙しさにかまけて、情報をしっかりチェックして、行動に移せていない
・ちょっとした障壁を億劫に感じて実施まで至らない
の2点に尽きると思う。
昔はそれほどには真剣でなかったわけだが、
行動に移さないことはチャンスを逃すことであり、忙しさや大変さによって有用な情報に集中できない環境に身を置くことは
これまたチャンスを逃す行為だということがわかった。
・結局自己責任でねーの。被害者の人が言っていることが投資は自己責任なのは知っていたけど、わかってなかったんで騙されました。ってレベルのこと言ってる
・この人たちは紛いなりにも社会のエリートで、それなりの人に囲まれて仕事して、それなりのお給料をもらって、”そこに至るまでに紆余曲折が個々人についてはあったにせよ”、なわけで。もっと社会の底の方でうずうずしている人たちから見れば、はっきり言って「ざまーみろ」かもしれない。心優しい彼らはそうは思わなくても。
・だって結局は土地や人の生活は彼らの生活を良くする糧(投資、資本)としか見られていないんじゃないか?この地球上で限られている土地と一人間の生活が詰まっている場という解釈で投資を行っていただろうか?彼らは。