この人会社(社会?)に出たら一撃死ですからね

会社の中にお金や権力だけで、人を動かそうとする人いますけど、

そういう人は会社(社会?)に出たら一撃死ですから。

札束で頬をしばくように取引先や請負先との仕事の進め方する人、

おまえこの仕事できなかったら後ないぞ、(詰むよ(おまえの人生))感満載でプレッシャーかけてくる人。

ってレベルで人使っている人、社会(会社?)に出たら一発でアウトですから。

だってみんなそんな人と仕事したくないでしょ。

まあなんかが飛び抜けてて、その人でないとどうしてもできないってもんがあったら

違うかもですけど。普通フリーとかになったら、人間が信頼できるかも含めた勝負。

仕事の質や条件が均衡したら、この人と仕事したいってので、仕事が入ってくるもんです。

私の過去上司にもミスターOUTさんいましたから、

もうすっぽんぽんで歩きまわってる(オフィスの中を)王様ですよあれ。

オフィスをでってたらみんなに「きゃー!!」って言われて、

公然わいせつ罪でおまわりさんに捕まるやつです。

でもその会社のオフィス内では誰も「あんた裸だよ」って言ってもらえないあの人です。

いるでしょ、みなさんの周りにも。

極真の一撃的な絵

 

婚活サービスは

本当の未婚者からのニーズとは違うものを提供している可能性はないか

出会い◯なサイトをいかがわしいと両断する風潮はあるが、

私の知る限りmixiもFacebookもLINEも全部出会いの温床の部分はすごく大きかった。

男女の性というどうしても避けて通れないところでみんな

いろいろ問題を抱えているのだから、それを商売としてしまうだけでなく、

もっとスムーズにするためのサービスがあっても良いと思う。

投資はギャンブルという感覚

私の母親が持っているこの感覚。

投資がギャンブルであるならお金を稼ぐそれ自体もギャンブルだろう。

労働は賃金とたしかに密接に関わっているけど、賃金労働なのであって、

純粋な労働に対価が払われるかは別である。

言ってしまえばボランティアとして働くこともも労働である。

純粋労働はたしかに投資とは全くことなるけど、対価のための労働も投資の一種だろう。

労働で得たお金で教育も自宅を買ったりもするだろう。

教育や自宅は資産であるというのは想像しやすいし、お金も資産だ。

こういう話をすると賃金労働は投資とは全く別物だという

自分の固定観念を誇示したがる、思考停止な主張にあってしまうこともしばしだが、

それ自体が上位者からの恐ろしい洗脳だと思う。考える力を奪われている。

はっきり言って、国なのか社会なのか資本家サイドなのかわからないけど

投資は私利私欲にまみれたギャンブルで労働は美徳という価値観を植えつけているのは

とんでもない洗脳教育だ。

年間何回するのか

にしばられなくてよいと思う。

100回の台に乗せることをそんなに意識しなくてもいいんじゃないか。

週1でもせいぜい365/7=52回くらいなのだから、今週は飛ばしちゃった、今週は2回できたってのがあって、

やっとこ50〜60回でしかないんだし。

仮に20〜30回でもだいたい月に2回のペースは保てているのだから、

パートナーとの間での納得感があれば良いのではないか。

せいに関するお互いの考え方も含めてそれはいろいろな形があって良いはずで、

たしかに長期間となるとレスの危険性があるが、

パートナーごとにペースも違って、それによって年間50回以上差が出てきても

それはそれでええんでないかと思う。

せ・◯◯のことでみんな悩んでいるのだろうからもっとそれぞれに出口があってもいいように思う

武井壮に思う、山本耕史に思う

武井荘がストイックでも、女性に期待させてお金を使わせてしまった過去があるなら

脇の甘さがどこかにあったのかもしれない。彼の才能努力完璧なら他も完璧ということではない。

どんなに自分のことが実現できていていも、情報が発信されていても、真実は自分の中にある。

別に努力が実って有名になってお金持ちになること、世間に影響力を与えられることが

人生の価値を左右するわけではない。

無名でも、金持ちでなくとも、正しく生きようとしていくことでも十分人生は表現できる

山本耕史は正直羨ましいが、彼とてほぼ偶然だったのだろう

でもここでも堀北真希の文脈でラッキー、羨ましいという言葉が出てきてしまうが

本質はそうではない。山本耕史自身に幸せになる意思があったから

たまたまタイミング的にそうなったのだろう。

彼に幸せになる意思がある限り、別の形でも幸せになりえた。

それは一時的なことではなく、常に生活の中で問われていることだ。

目に見える美しく若くて家庭的な内助の功を買ってでる妻を娶ったということに関心が行きがちだが、

そこではないのだろう。

幸せになる意思があるなら、困難とも向き合って幸せになれるからだ。

美しく若くて家庭的な内助の功を買ってでる妻と結婚できなければ幸せになれないというのは

人生から何か幸せにしてもらえるものを得る発想だ。

そんな理想の人生を獲得することが目的の人生はなんなのだろうか。

またそう考えてるがゆえにそんな人と巡り会えないのだろうし。

そうでなかったのなら幸せに慣れない、他の幸運な誰かより不幸せだ、

という話なのだろうか。どうだろう。幸せはやっぱり自分の中で作り上げて、

またそれを人とシェアしていくことだろう。人間社会では。

ブログに時間軸を反映させるのが難しい

2014年中場はじめてブログをやってみようかと考えていた→考えただけ

染谷氏やOzPA氏、HIKAKINの本も読んでみた、

その後2015年終わりに再度ブログをやってみようかと思い書いてみたが、

2週間程度で辞めた。イケダハヤトさんのサロンにもちょっと入って見た。

そん時結構いろいろな人のブログを見ていた。

それで今改めて周りがどうなっていったかの時間軸を整理してみると

主義主張や人間の生き様といったものが随分変わっていっているように感じる

ブログを続けてよくなっているのがわかる人もいれば、

そのブログで掲げていた旗そのものが変わってしまった人もいる

こんな時間軸がわかるように、現在だけではなく、どう変化していったかを

ブログにわかるように埋め込むのも必要なんでないか?

別にどう変わるかは個人の自由としても

10年続けられれば、それだけで、ほんの一握りの0.◯%になるだろう。

多分ほんとそれだけでいい、15年もしたら妖怪の域かも。それだけ続けば違いが勝手にうまれる。きっと

ただ5年、10年というスパンの中では、この方法でインターネット界隈で食っていけるというものも

どんどん変わってくるだろう。アフェリエイトでSEOがどうの、Youtuberが旬だ、これからはInstagramだの

これからもどんどん出てくる。そういったのは、変化として。そんなんはおっさんたちではなく

10代、20代前半の若い人たちのところから出てきて、またその世代がおっさんになっていっての繰り返しになる。

もしかしたらgoogle様に従っている世界すらも変化しているかもしれない。

そんな中でもメディアとしてのあり方、コミュニケーションのプラットホームの変化を追い続けることを

10年、15年継続してたらもう一人勝ちだろう。

10年続ける、その意思だけで勝ち組だ。