刑務所とシェアハウスの間取りの区別

刑務所の独房みたいな広さの部屋の間取り図を

ある大家さんが「何、このステキな空間」と言っていたのだけれど

刑務所の間取り図もきっと綺麗に書いたら

「何、この独房、ステキだから住んでみたい」ってなるんだろうか

シェアハウスの全部を否定してるわけではないですよ

豚の馬車とかいう商品が若者にこんくらいで生活しろっていってますが

まあなんか悲しいですよね

なんのしなかった人たちにお金を上げる余裕のある会社は

たぶん◯腸炎売り上げがあってももう無理なんじゃないでしょうか

何にもしなかったコンサルタントと上司に3ヶ月でトータル1000万円ムダに放り込んでるでしょうから

利益が薄くなってきている昨今にいたって、仕事しないおっさんを消していっているだけでは不十分でしょう

実際の作業は何も変わらず、見せ方を変えただけのところに

1000万円払える余裕はもうないだろうに

この仕事してます感だけで何にも生産せずに

利益を使っていたら潰れるよ

人間価値5かクズめ

あなた人間価値5なんですね

私の人間価値は1500ほどです

あなたクズ、ですね

だいたいお給料の額のことを言ってます

この人間価値ってやつは

なんでも人間はどこでも給料がもらえる(間違っても収入すべてではなく、お給料です)

鉄骨ビジネスアスリートにならないといけないらしい

昔私の勤めていた会社での人間に対する評価基準です

こわいこわい

親世代との差

私は母と35歳ほど年が離れていますが

母と話すと正直自分のおばあちゃんと話していると感じます

 

別に悪い意味ではなくて世の中の流れがそれだけ早くなっているということです

 

昔は25年〜30年、歳が離れてやっとこ昔はさ、とか私たちの時代はと言っていましたが

現役30代の私は10〜15歳年下の20代に対して、昔はさあって言わないといけなくなった最初の世代なのだとどっかの記事に書いてありましたが

全くもってその実感てんこ盛り盛りです

 

つまり昨今は15×2=30年で2世代分の感覚的な違いが出ていると思います

これがそのうち段々と10×2=20年で2世代と狭まっていって

 

私は子どもが大きくなったら、子どもに対して自分がひいじいちゃんであるかのような世代違いの状況におかれるんじゃないかと思ったりします

研究についておもう

金が全くなくても、どんだけ続けられるか、ていうかどれだけ私財を突っ込んで

やっていけるか。まあパトロンを見つけるのも一つの方法だけど。

地方国立の現状は国として憂う状況だが、地域として大学という冠に頼らない生き方を模索していかないといけない状況になったことは明らか。

この状況が一回転してもう大学なんていらないという状況から本当の地方再生は始まっていくんじゃなかろうか。

結局目的が何なのか、資金集めが目的化してしまったようなものの成長力はたかがしれている。

 

没落する地方国立大の何とも悲惨な台所事情

出展:東洋経済

 

不動産業界死ね その1

不動産屋のおっちゃん何にも言わへんけど、

これで保証もバッチリですって言われた家守りホールディングスさんの

保証→なんも保証してくれへんやん。

 

屋根の塗装がはげている→劣化なのでダメです。

水回りのもれ→初期不良でなければダメです。

 

屋根は雨漏りがあれば保証するけど、予防や補修はNG

漏水についても劣化だとだめで、初期不良とみとめられた場合はって、、、

 

もうこの中古24年経ってるんでっせ、

初期不良で大きな問題ないことや、何がしかの劣化に対して対策が

必要なのは当たり前やないですか。

屋根塗装がダメなんで、直すのに雨漏りするまで放置したら保証します。

5年以内にね。→もう死んでください

 

そういう保証しかしないのにこれでなんか問題あった場合でも保証されますって

おっちゃんいってましたやん。

業者のおっちゃん、この保証通すのに10万円出してくださいって

言っときながらなんも保証されんやんけ→ボケっ!

売るために安心風味、ほんまの安心やないけど、つけといたらこうてくれるやろ。

費用はあんたんとこもちでなっ

 

って不動産屋もう結構です。

 

この社会で私たちは材料

富を生み出すための材料です

人間は

そういう価値だと定義されています

資本主義?社会で

でもごめんなさい、資本主義はそんなところは定義はしていないかも

ただ実際の現行社会の運用上、材料になってしまっています

ここの人間としては人が目の前で死ねば、怖いし、悲しいですが

資本主義の最も根幹の富を再生産していく活動の上では

富を生むための資産でもあるけど、原材料でもあります

もちろん富を得るのもその人間なのですが

材料として使われるのも人間です

別に材料なのでそこに感情は存在しないです、使ったら終わりですし

使えなくなったら終わりです

使える量の価値で評価されます

資本が価値の全てである社会はしんどいです

ホモ・サピエンスという贅沢品

ちまたではこどもを持つことが贅沢だという表現がでてきているようです

まあこどもは人生の機微を与えてくれるものなので

親からしたら贅沢品という表現もできるでしょう

またこどもを持ちたいが、持てない親からすると言うまでもなく

子どもを持っている人が自分より幸せに映ることもあるかもしれません

ただ子どももここで一人の人間で親には喜びとともに責任も伴うわけですが

さっきから使っている「持っている」という感覚のものでもないものです

所有感の強い親御さんもいらっしゃるでしょうが

さて子どもを持つことができる親は贅沢だという表現に言い換えるとして

もしくは子どもがいるという存在自体が贅沢だというようにもとれるので、そう言うとしても

これはとりもなおさずホモ・サピエンスが存在することは贅沢だというようにも聞こえます

すべての大人は子どもでした

当たり前ですがすべての人間は赤ちゃんから老人の間のどっかです

親に子どもがいることが贅沢であるとすると、もはや人間が存在できることが贅沢であると聞こえます

子どもを育み育てることは単に動物として自然なことで、それを幸せに感じるから種も生き残っていくわけですが

それをさせてもらえない、できない人たちがいるので

その営み自体が贅沢であると

でもこの営みが贅沢だとするとどうしたらよいのでしょうか

人間が動物としての営みを行うことが贅沢であるとするなら

贅沢の対義語である倹約を行うべきかもしれません

ただここで実は私も人間自体が贅沢なんじゃないかと思ったりすることもあります

私より上の世代の人が敗者の不幸とゼロサムのパイを奪った上に成り立った安定生活を送った上に、定年してからも

これから自分にはどんなラッキーで幸せなことが降り注ぐんだろうって思っているような人が

大なり小なりいる事実一つでも

十分やつらは贅沢品です

そう存在が贅沢です

幾多のかばねの上に成り立った生活を送って、年老いてからもさらにかばねを重ねて生きて生きたいと思ってる

贅沢です

たったの一個体がこの世のすべてとはいかなくても

手に入れられる限界まで程に入れれるるものは手に入れられるのだと思っていたら

こんな贅沢な種は大した個体数が存在できないでしょう

だって贅沢だから

ではいつかこの贅沢品を慎まないといけないという考えも出てくるのでしょうか

ホモ・サピエンスという贅沢な存在、子どもを持てるという贅沢が見直されて、慎まないといけないということでしょうか

たぶんホモ・サピエンス、賢い猿たちにそれを判断できるだけの力はないように思います

でも私のスタンスは贅沢だです